社長の生い立ち
大家族の土屋家に生まれる
昭和31年6月12日静岡県田方郡(現伊豆市)本柿木にて、
男ばかりの5人兄弟の三男として生まれる。
祖父母と叔父、叔母、両親と兄弟5人の11人で暮らしていました。
家業はコメ作りや野菜やシイタケの栽培のほか、
養豚などで生計を立てていました。
のどかな田舎で大事件
小学校4年生の時のことですが、
友達と一緒に下校途中、
通学路にある橋からふと下を覗くと、
川の中に人が沈んでいる・・・・・・?
二人で顔を見合わせ、
「人だよな?」
誰かに知らせなきゃと、
急いで近くにいたオジサンに伝えると、
「お前らどこの子だ!悪い嘘ついて!」
と信じてもらえない。
どうしたらいいか二人で頭を抱えましたが、
勇気を振り絞って再度オジサンに、
「ほんとだから見てみてよ!」
とうったえる。
「また来やがったか!嘘だったら承知しねーぞ!」
と川を覗き込み、
慌てて石垣を転げ落ちるように川の中へ。
手遅れで無念でした・・・・・・
ゴルフとの出会い
子どもだった頃の伊豆は、
春は近くの山でゼンマイや蕨やタケノコを取ったり、
夏は川でアユやヤマメを捕ったりできる田舎でした。
けれども小学生の高学年になると、
映画の日活株式会社がゴルフ場やホテル、
映画館やプールやテニスコートにボーリング場を建設。
一大リゾート地となり、
地域の人々の雇用を生み出していました。
そんな中で私も、
小学校卒業の翌日からゴルフのキャディーのアルバイトを始めることに。
そのゴルフ場には二瓶綾子プロ(後の日本女子プロゴルフ協会会長)が所属しており、
声を掛けられて嬉しかったことを憶えています。
お客様には映画スターの赤木圭一郎や北原三枝、
菅原文太や渡哲也に梅宮辰夫などなど往年のスターたちも。
夏休みになると都会からお客様が沢山やってきて、
ホテルで休暇を楽しんでいました。
両親の涙
中学校3年になり進学する高校を決める頃、
2人の兄が通っていた地元の農業高校に行こうと、
兄に相談すると、
「お前は来るな」
と言われる。
仕方なく担任の先生に相談したところ、
愛知県豊田市にあるトヨタ自動車(株)の経営する工業高校に、
全寮制で入学することになりました。
入学の為出発する日の朝、
玄関で私を見送る母の目に大量の涙。
さみしさを感じながら、
父親と三島駅の新幹線乗り場へ。
私を見送ってくれたホームで手を振りながら、
今度は父親が口にハンカチを咥えて大粒の涙。
親不孝者
高校生活が始まるのと合わせて全寮制の生活も始まりました。
この寮生活が最初はとても辛く、
先輩方が怖くておびえる毎日でした。
そんな生活が1年も経たない頃、
秋に十二指腸潰瘍を患い、
1か月の入院食事療法で治療をしました。
なんの知らせもなく、
突然母親が見舞いに来てくれたのには驚きましたが、
親が子を思う気持ちがなんとなく理解できました。
そんな高校生活も気がつけば3年生に。
のどかな春の日に仲の良かった同級生が、
「遊びに行こう」
と誘ってきたので外に出ると、
そこには顔見知りの2人のOLのお姉ちゃんが車で来ていて、
4人でドライブ。
途中、調子に乗った同級生が無免許なのに運転を代わると、
天罰が下ったのでしょう、
スピード違反で捕まってしまいました。
当然このことは学校に知れて大変な事に。
先生に呼ばれ部屋に入ると、
そこには母親が。
先生の話が始まると母親が、
「何とか面倒を見ていただけませんか」
と何度も頭を下げていましたが、
「決まってしまった事なので」
と言う事で退学処分に。
都会にあこがれて
仲の良かった同級生が東京で先に生活していたので頼って上京。
手っ取り早く喫茶店でアルバイトを始めましたが、
時がたつと何かが芽生え、
もっと上を目指したいと思うように。
近くのキャバレーに転職。
それでも気持ちは収まらず、
「どうせならとことん上を目指してやる!次は銀座だ!」
運良く知人の紹介で銀座の高級クラブの店長さんと知り合い、
「うちの店に来ないか」
と誘ってくれたので二つ返事で働くことが決まりました。
さすが銀座の超高級クラブです。
お客様は芸能人や政治家、
一流企業の社長やプロゴルファーに、
なんだか得体のしれないお金持ちも。
その店で働くうちに、
「いつかは俺も、あっち側に座ってお酒を飲むようになってやる!」
と決意しました。
その時若干20歳。
しかし時代の流れでしょうか、
その後お店を閉めることに。
ママさんとお付き合いしていたテレビ局のプロデューサーに誘われ、
テレビの番組制作の道へ。
しかし労働に見合うような報酬が得られず、
不動産会社に転職。
ですがこれまた会社が倒産。
会社からは住んでいた社宅も出ていけと言われ困惑。
いきなり言われても出ていけるはずもなく、
管理していた不動産会社と直接賃貸契約を結び、
何とか住処だけは確保しました。
建設業の世界へ
職探しをしていた私に、
友人がある会社を紹介してくれました。
千葉に本社がある会社で、
都内に営業所を出すのでスタッフを捜しているとの事で、
面接に行くと採用決定。
社長から、
「最初の1年間は赤字でも構わないよ」
と言われていましたが、
売り上げがどんどん上がっていき、
なんと営業成績がトップに。
スーパーゼネコンから工務店まで、
様々なお客様より仕事を頂き忙しい毎日。
職人が足りず自分で現場に出ることもありました。
しかしまたもや事件が・・・・・・
突然社長が行方不明になり、
一週間後に山奥で自殺している姿で見つかりました。
独立の転機が
その後は奥様が社長に就任。
ちょっとしたきっかけで社長と喧嘩。
こうなったら独立するしかない!
と、退職することに。
お客様に会社を辞めることのご挨拶に回っていると、
「やめて何するの?」
と聞かれ、
「自分で会社を起こして同じ仕事します」
と伝えると、
「それなら仕事お願いするから取引コード取りなさい」
と言ってくれて、
感謝の気持ちしかありませんでした。
集中する耐震補強工事
独立した頃は阪神淡路大震災の後の時代で、
毎年夏休みになると、
小学校の校舎の耐震補強工事が集中して行われていました。
独立したと言っても下請の立場です。
夏の建設現場はとても暑く、
場所も遠かったりで経費ばかりがかさみ、
利益が出ないという事も度々ありました。
ただ、校舎の耐震補強工事も次々と終わっていき、
リーマンショックが起こると、
仕事が殆んど無くなり会社の存続の危機に。
初めて母親に電話をし、
「もう俺の会社だめかもしれない・・・・・・」
と弱音を吐きました。
それでも派遣の会社に登録したところ、
都内の解体工事会社に派遣で雇ってもらえることになり、
なんとか危機を乗り切ることができました。
その後も運良く昔からお仕事を頂いていた会社さんから、
長期の改修工事を任されたりと、
少しずつ会社も回復していきました。
民間のマンションや工場、
学校や社員寮などのあらゆる建物の耐震補強を通じて、
色々な出会いが生まれました。
その出会いが私を育ててくれたのだと実感しています。
建物を地震から守るということは、人の命を守るということ
長年培った経験と技術をこれからは住宅に活かし、
明日の安全な生活をお約束するために、
そして地域社会に貢献できるように、
日々努力を惜しまず走り続けます。
株式会社瀬戸口工業 代表取締役 土屋 満